vol02.福島第一事故があったから脱原子力に転じたわけではない

脱原子力 ドイツの実像

2.脱原子力へ(2011年以降)

 2011年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故を受け、メルケル首相は直ちに、旧い原子力プラント7基と故障で長期停止中の1基、計8基を3か月間停止するよう指示した。同年7月には一時停止中の8基の再稼働を禁止するとともに、運転中の9基も2022 年までに段階的に閉鎖することを決定した。同8月にはその9基の段階的閉鎖と、それらを再生可能エネルギー及びエネルギー効率改善により代替していく旨を掲げた包括的法律「Energy Package 2011」が施行された。
 Energy Package 2011には、送電網の拡充迅速化を定めた送電系統拡充加速法(NABEG)、導入コストに配慮した再生可能エネルギーの拡大を定めた再生可能エネルギー法(EEG)の改正、2022年までの原子力発電所の廃止を定めた原子力法の改正、エネルギー・気候基金設立法の改正など7つの法令及び公共事業の裁定に関する政令から構成されている。
 このように福島第一事故以前から積極的なエネルギーシフトを進めてきたドイツであるが、FIT制度の賦課金負担の急上昇が問題となっている。2014年10月、政府は賦課金制度開始以来、初めてEEG賦課金単価を引き下げた。それでもなお消費者の負担は重く、ドイツの電気料金は欧州の中でも高い水準で推移している。ドイツの再生可能エネルギー政策、事業制度、電気事業の状況については、その分野の専門家の手による他の章での詳細をご参照頂きたいが、原子力政策の変遷、特に2011年のやや急速な脱原子力が他のエネルギー政策や電力事情に与えた影響は無視できない。
 2015年6月、2011年に決定された廃炉スケジュール通りにグラーフェンラインフェルト発電所が閉鎖され、これでドイツ国内の運転中原子力プラントは8基・計1,135.7万kWを残すのみとなった。世界第9位の順位には変動がないものの、かつて世界第5位だった4年前とは明らかに原子力の位置づけが国内外で後退している。かつてのSiemens原子力事業部はフランスの原子力企業Arevaグループの一員となり、現在もニュルンベルク近郊のエアランゲンで事業を行っているが、主要事業はかつてのプラント保守や燃料設計から廃止措置に移っている。反面、再生可能エネルギー拡大に伴い、ドイツ国内企業は原子力を縮小し風力や送電・蓄電等への注力を強めている。1980年代から産業界や消費者を巻き込んだ議論がなされてきたエネルギーシフトは、数々の歪みが顕在化しつつあるとはいえ、着実に進展し、国民にも一定の理解を得て浸透しているといえるのではないだろうか。
 今後、再生可能エネルギーの拡大や省エネの進展に伴い、FIT等の諸制度が多少修正されることはあっても、1960年代のドイツのように原子力開発において世界の最先端に返り咲くことはまず無いであろう。ドイツ国民はエネルギー安全保障の観点からいったん原子力を基幹電源としながら、40年近い議論を経て、原子力なしで低炭素・環境適合性のある社会の実現に伴う負担を受容するに至った。「Energiekonzept」に描かれた2050年のドイツのエネルギービジョンは、世界エネルギー機関(IEA)の描く「2050年までの平均気温上昇を2℃以内に抑える」いわゆる「2℃シナリオ」の姿そのものである。この壮大なビジョンに向け、ドイツ国民がどのような政策を支持していくのか、我々日本としても興味深く注視したい。

3.原子力の位置づけと技術基盤

 ドイツは1945年以降東西に分断されていたが、1990年に東ドイツの崩壊により再統一された国である。統一後は旧東西での経済状況や社会インフラ成熟度の違いにより、特に旧東ドイツ地域において非効率な火力発電設備の更新や閉鎖が行われた。このとき併せて旧ソ連の技術導入により建設されたノルト(グライフスバルト)1~5号機も西欧の安全基準に則して問題があることを理由に閉鎖されている。1990年以降2000年代前半頃まで統一ドイツの発電電力量が横ばいなのはそのためである。
 もともと国内に豊富に存在している石炭資源を有効活用し、石炭産業に対する強い政府の保護もあったため、発電に占める石炭火力の比率は1970年代には70%以上、2000年代前半頃まで50%を超えていた。なお、ドイツでは北部と南部で原子力に対する考え方がかなり異なっており、北部には炭鉱が多くあり保守党も炭鉱を保護する政策を取っていることから石炭火力が盛んである。一方、南部では炭鉱もなく石炭や石油を輸送するには様々な制約があったため、原子力発電の必要性が早くから認識されていた。現在でも多くの原子力発電所が旧西ドイツ地域の南部に集中的に立地しているのはそのような地理的な理由からきている。
 1970~1980年代の電力量の伸びにおいて、日本とドイツとの差異は歴然としている。1970~90年の20年間に電力量が約220%増加した日本と、同160%増だったドイツとでは、基幹電源としての原子力の位置づけに差があって当然だろう。しかもその後、東西ドイツが統一されて発電設備が過剰となったドイツにおいて、これ以上の原子力発電設備を必要とするエネルギー安全保障上の理由は更に乏しくなった。豊富な石炭資源があり、自動車産業などで培った世界有数の製造技術力とインフラを誇るドイツは、エネルギー自給率の向上や環境意識の高まりに対応した省エネ・再生可能エネルギー源の開発においても世界最先端を行くことが可能であった。チェルノブイリ事故がたとえ無かったとしても、ドイツの原子力政策はエネルギー安全保障上の根拠を失って衰退した可能性が高い。
 原子力部門を有するドイツの民間企業は、1960年代から世界に先駆けて活発な技術開発および実用化に貢献してきたが、1980年代後半から原子力政策が停滞する中、撤退あるいは放棄を余儀なくされたところが多い。
 1960年代の原子力発電導入時からドイツの原子力産業をリードしてきたのはSiemens社である。ドイツ政府が既設原子力発電プラントの段階的廃止と新設禁止を決めた2000年、同社はフランスのFramatome社と原子力部門を統合し、Framatome社が66%、Siemens社が34%を出資する共同子会社Framatome ANP社を設立することで合意した。その後2001年9月、Framatome ANP社はフランスの持ち株会社Arevaグループに入り、名称もAreva NP社となった。このときArevaグループは、Siemens社の技術力を今後のAreva社の国際展開に活かし、Siemens社の開発した新設計SWR1000(BWR)を“Kerena”とリネームし、旧Framatome社の看板設計であるEPR(PWR)共々、世界のマーケットに展開していく旨を発表していた。



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